ブログ・コサワ

日常の気づきと、真面目の向こう側の笑い。

わかってるよ。

ごきげんよう、コサワです。

 

私は、

人に教えられるのが苦手な

なかなか可愛くない子だった。

 

「自分でわかった」

と思いたい。

 

人に教えてもらっては、

「わかってる」

と言い放つ。

 

なんという、

思い上がりクソガキ野郎。

 

と思われていたと思う。

 

自分でも、思う。

 

 

気付けばアラサーになった今、

 

猫をかぶっているだけかもしれないが、

多少ソフトになった(と思う)。

 

しかし、

残念ながら、

 

今も、この病は完治していない。

 

どうも、やっぱり、

「人の教えに従う」

というのが、苦手、、、。

 

 

守破離 という原則もあるし、

 

「守」;まず師匠の教えに従い、型を覚える

 

それが大切なのは、重々承知である。

 

 

でも、それをすんなりできない性(さが)。

 

 

ただ、お陰で

 

 

「人を放っておく」

 

ということには、

特化した人間になれたように思う。

 

 

自分でわかることを

人に言われるって、ウザいよね。

 

うんうん。

 

 

 

ところがどっこいである。

 

 

先日初めて、

 

ライティング会 なるものをした。

 

聞かれたら、

文章の書き方のアドバイスもします~

 

とゆるい感じで、スタート。

 

その割に、

 

随分、人にアドバイスしてしまった。

 

・・・。

 

ついに、

「教えたい病」の人の気持ちも

分かってしまったようだ。

 

 

 

 

 

 

近所の道路

みなさま ごきげんよう

コサワです。

 

 水曜日、駅前の銀行に行きました。年金を払いに。

 

 久々に自転車を使いました。

 

 我が家のガレージは縦長で、2台を縦に並べて入れています。それで、私の車は、奥に置いてあるのですが、つまりは、「前の車を出して、私の車を出して、前を車をもう一度車庫に入れる」という大変な面倒くささがある訳です。

 

 そんな面倒くさいガレージの事情が後押しになり、生憎(あいにく)の雨の日に、久々の自転車に乗りました。

 

 銀行は、学習塾の近くにあります。学習塾には、中高生のころ、よく通っていました。でも、通る道は、あの頃とは、随分違います。

 

 15年前は無かった道があって、ほぼ一直線で銀行に着きます。開けたキレイな道を、ゆるゆる自転車で走りました。お金をかけて作られた、立派な道、街路樹も植えられています。

 

 走りながら、ふと横を見て、中学生のころは、向こうの住宅街の中を、毎日自転車で走っていたなぁと思いました。最短距離で、駅に繋がる、このキレイな道ができたので、以前使っていた細い道を通ることは、もう滅多にないです。

 

 今更、スマホの無い時代には、戻れないように、この道が無い生活には戻れないです。道路にしたって、何にしたって、変化すれば、新しい景色を見る一方で、もう戻れなくなって、見えなくなる景色があるものです。

 

 変わらないものは無いということが、普遍だと言わるし、それは当たっています、、、。ただ、変わったということに気付かないのは、落とし穴にはまっているような状態、、、。

 

 道ができたということは、誰かが作ったということ。立ち退いた人がいるということ。いつもキレイであるということは、誰かが掃除しているということ。緑が美しく茂っているということは、誰かが世話をしているということ。

 

 変化にも、不変にも、蔭がある。落とし穴は、誰かが掘ったから、そこにある。平らなのは、誰かが掘った穴を、違う誰かが埋めたからってこともある。


 見ようとしないと見えないものを、大切にしたいなぁと思います。


 街路樹の躑躅(つつじ)は、下から生い茂るカラスノエンドウに日照を奪われて、早くも、ところどころ枯れています。

日記

思考は、消える。

悩んでいたことも、

過ぎ去れば、

何をそんなに悩んでいたのか さえも、

わからなくなる。

 

みなさま、ごきげんよう。コサワです。 

 

頭の中って面白くて、

明らかに”思考”という何かがあったのに、

出来事にならない限り、

跡形もなく消え去る。

 

時々、それって惜しいなと思う。

 

だから、時々、日記を書いてる。

 

別に、他人に言うでもないことを書く。

 

たまにパラパラとめくる。

 

過去を振り返る行為 を嫌う人もいるけど、

私は、振り返るタイプ。

 

 

一年前の私は、

ボス猿みたいなパートさんに、

言いたい事を言えず、

気を揉んでいたようだ。

 

今や、どうでもいいことだ。

 

心の底から、どうでもいい。

 

目の上のたんこぶ のような人も、

別に悪い人じゃない。

健康に過ごしいらっしゃるといいなぁ 

と思う程度だ。

 

数か月前は、また違う人に、

気を揉んでいたが、

それもまた、今や大したことではない。

 

こうやって、

似たようなことに悩んでは、

忘れ去った自分がいる事を知る。

 

  

文字になった過去の自分に、

時々、救われる。

 

どんな人も、弱くて強いと思う。

 

私の場合は、日記から、

弱い自分に、励ましをもらう。

 

 

癒し系 ロードムービー だって、

誰かの日記みたいなものじゃないか。

 

伝える とは?

言葉で説明できなかったことが、

ふと、理由と結果が結びついて、

言語化されたとき、

 

別に状況は何も変わっていないのに、

すっきりしたり、

安心したりする。

 

つい、1時間ほど前、

ここ一年の謎がひとつ解けました。

 

こさわ です。

 

一年前、

 

毎日のように、

代わる代わる 違う人と

交流していることがあった。

 

 

その中で、

 

聞きやすい時と、

なんだか、聞くのがしんどい時、

 

というのがあるのに気付いた。

 

 

何の違いなのだろう、、、と、

いろいろ答えを探した。

 

 

拙い私の思考の一部をご紹介すると、、

 

 

解1、話している本人が楽しそうかどうか

 

 相手は楽しそうに話していても、

 聞きづらい時もあるなぁ、、。

 この観点ではなさそう。

 

 

解2、本人の話をしているか、他人の話をしているか。

 

 自分のことを自分で話すのは、

 思う存分、その人の勝手だと思うが、

 やたらと、

 友人や上司のことを長々と話されると、

 なんだか冷や汗がでる時がある。

 

 聞きやすさと、聞きづらさ、

 のボーダーはここか? と思った。

 

 が、これもちょっと違った。

 

 ある人のお姑さんの話に、

 気持ちよく爆笑した時があったから。

 

 

その他、いくつか観点が浮かんだけれど、

この1年、しっくり来る答えが出ていなかった。

 

解3、伝えようとして話してくれているかどうか。

解4、アドバイスなど、干渉性があるかどうか。

解5、口で言ってるだけか、行動しているか。

解6、解7、解8、、、。

 

凝り性なのか、

人との会話で違和感を感じる度、

いろいろ答えを探した。

 

 

” 聞きづらさ ” の答えは、、、?

 

 

今日、

覚めたコーヒーをすすりながら、

毎日見る顔の人と、

しらすって、生もあるけど、

 結局、釜揚げの方がおいしくない?」

という他愛もない会話をしている最中、

その答えが見つかった。

 

 

   相手がこちらを見ていない。

 

 

なんてことは無い事だと思う。

 

だけど、それが大きい。

 

 

ちゃんと、

こちらを向いていたら、

たぶん

目に見える情報だけじゃなく、

漂う何かも含め、

私という人間を感知してくれるのだと思う。

 

こっちを向いてくれていたら、

同じ話でも、

もっと心地よく耳に入ってくるのかもしれない。

 

 

私は、他人にどうしてるかなって、

わが身を振り返った。

 

 

正直な所、

どこかのセミナーで聞いたり、

自己啓発本にわんさか書いてる。

 

「人と話す時は、

 相手の方を向きましょう。」

 

 

やっと、知識が理解になった。

 

 

それでは、

 

みなさま、ごきげんよう

 

 

クリエイティブなお仕事

 

ごきげんよう

 

こさわ です。

 

 

最近、時間が出来まして、

 

部屋の片づけをしておりました。

 

 

バシッと1日で終わらせる、

 

という性格でもなく、

 

 

ダラっと1週間かけて、

 

片づけておりました。

 

 

捨てられない性分なりに、

 

物を処分しようと思い立ち、

 

 

 

BOOKOFF に、

 

本・CDを持って行き、

 

臨時収入をゲットしました。

 

 

 

買取額が並んだレシートを受け取り、

 

その金額の内訳を、

 

ものの価値って 人気なんだなぁ、

 

と、一つ一つを確認。

 

 

 

もちろん場面が違えば、

 

人気だけが価値ではないですが、

 

 

やっぱり、

 

みんなが欲しいと思うモノには、

 

それなりの値段が付く。

 

 

ただ、人の関心の対象は、

 

時が流れると、移っていくし、

 

今日400円で買い取られた本も、

 

半年後は、

 

何円で買い取ってもらえるか、

 

分からない。

 

 

当たり前のことだけど、

 

しみじみ、

レシートを眺めて思いました。

 

 

 

自分のこととして感じたとき、

 

分かってたことが、

 

もっとミクロに分かる。

 

 

体験しないとわかないなぁと。

 

 

モノを処分して、

 

スッキリした一方、

 

 

お金のシビヤさを肌で感じて、

 

頭に

新しい靄(もや)を浮かべながら、

 

帰宅しました。

 

 

翌日、

 

 

退職したら、

 

スッキリさせたいなぁと

 

予てから思っていた、

 

もう一つを片づけに、美容院へ。

 

 

近年流行りのコーワーキング(coworking)で、

 

知り合った美容師さん。

 

 

1年半ほど前に、

 

その存在を知ったときから、

 

切ってもらいたいなと思っていて、

 

やっとこさ 行きました。

 

 

まぁまぁ長かった髪

(鎖骨下くらいまであった)を

 

サクっと、

 

ショートカットにしたい

とお願いしました。

 

 

美容師さんにしたら、

 

結構なプレッシャーだったかと

思われますが、

 

 

「まぁ、

 そのうち髪は伸びるんで大丈夫っす」

 

 

と、適当なノリで依頼。

 

 

 

「長さはどれくらいまで、切っていい?」と、

 

モデルさんの写真を出しつつ、

 

正確に要望を聞き取る、美容師さん。

 

そして、

 

「長さだけ決めてくれたら、

 あとは似合うように切るよ」

 

と、頼もしい一言。

 

 

 

 

するり するり と、

 

落ちてゆく髪の毛。

 

 

切り離された瞬間、

 

他人になってゆく。

 

 

分かれたカップルとか、

 

離婚した夫婦って、

 

こんな感じなんだろうかと、

 

 どうでもいいことを思いました。

 

 

私がくだらない考えを巡らせている間にも、

 

プロは着々と仕事をお進めになり、

 

 

 

一旦、目安の長さに切り、

 

慎重に場所を選んで、

量を減らし、

 

さらに細かく切り揃えたり、

 

揃えた後に、

 

切り込みを入れたり、

 

 

 

手仕事を眺めて、

 

楽しんでいるうちに、

 

 

 

客(私)のオーダーの大雑把さとは、裏腹に、

 

繊細なプロのお仕事で、

 

想像以上の仕上がりに、完成。

 

 

 

私の想像(イメージ)を超えて、

 

リアルに創造してくだりました。

 

 

 

腕前は、

周囲の評判で知っていたものの、

 

体験するとやっぱり別格です。

 

 

 

私の想像は ぼやけてたけど、

 

美容師さんは、

 

どんな形がこの人に似合うか を、

 

切る前から

 

もっとハッキリと

 

イメージしてくれていた様でした。

 

 

 

期待以上の仕上がりに 浮かれながら、

 

帰宅がてら、お散歩しました。

 

 

 

第二次世界大戦後に、

 

当時の人が 植えに植えた、

 

ソメイヨシノ が咲いていて、

 

 

 

「桜は、満開になっても枝が見える。」

 

 

 

絵の先生が、そう言っていたと、

 

母が言っていたのを、

 

思い出しました。

 

 

 

頭の中のイメージでは、

 

桜って、

 

枝が見えないくらい、桃色に覆われている。

 

けれども、

 

実物を見ると、

 

確かに、たくさん花が付いていても、

 

枝が見える。

 

しかも 桃色 ではなく、ほぼ白色 。

 

 

 

想像と現実は、乖離しているものなのか、、、?

 

 

 

 

 

想像と創造は、一致させることができて、

 

創造されたものは、人工的とはいえ、

 

現実。

 

 

 

私の想像を超えて、

 

美容師さんは想像して、

 

それが、その手で創造されて、

 

現実になった。

 

 

 

今、わたしの手元にある、

 

この髪は、現実。

 

 

 

なんで、枝の見えない桜を、

 

私たちは、想像するのかな、、、?

 

 

、、、。

 

たぶん 絵 かなと思いました。

 

 

 

「桜 イラスト」で、検索したら、

 

枝の無い桜の 絵 が、いっぱい出てきました。

 

 

私の想像は、

 

誰かが作った 人工物 、

 

だから、ある意味、現実。

 

 

 想像=現実

 

 

案外、

 

現実と想像は一致しているようです。

 

 

 

 

私の部屋も、

 

完成図を詳細に描けば、

 

もっと片付くのかもなぁ と思いました。

 

それと、
 
イメージをリアルに変換する、
 
その腕前を持った美容師さんが
 
この世に居ることに
 
感謝だなぁと思いました。 

 

 

 

私がお世話になった美容院はこちら ↓ 。

 

beauty.hotpepper.jp

 

ゴミ

ゴミの分別が変わるらしい。


 私の住む地域は、ゴミの分別が細かい。面倒くさいが、そのお陰で、「ゴミ」というものに、意識を向けることが出来ている。

・焼却ゴミ(くず紙、髪の毛、ほこり、生ゴミなど)
・トレイ類ごみ(プラマークの付いているもの、ただし強い汚れの付いたものは破砕ごみ)
・破砕ゴミ(金属、陶器、小物家電、ゴム・革・繊維類、ガラス、など)
・粗大ゴミ(自転車、家具など)

 さらに、資源ゴミとして、新聞、雑誌類、ペットボトルなどは、別で分類して出す。

 私はそういうものだと思ってきたけれど、他の地域の人には、信じられない面倒くささらしい。

 この分類が、あと数ヵ月で終わる。

 大きな変更点は、焼却ゴミとトレイ類が、一緒に捨てられるようになること。

 焼却場が変わるから、細かい分別をしなくても環境に少ない不可で、処理できるようになるかららしい。

 暮らしの手間が減るのは、嬉しいことだ。なのに、何だか違和感がある。

 これでいいのかな? という感じ。

 誰かが、なんとかしてくれるから、自分に関係無いことは考えなくていい。
 
 無意識にそういう空気が忍び寄っているように感じる。

 だんだん違和感すら感じなくなって、考えないことが当たり前になるのかなぁとか思うと、変な気分だ。

 自分の身の回りと、直接は関わらない部分。境界線を引くと生きやすいことが多いみたいだけど、実際はどこにもボーダーラインはなくて、誰かが引いた線を、隣の人も見てるから、自分もその線にしたがって考える、行動する。

 人が集まると小さな社会ができて、右向け右が始まる。ゴミの分別は一例だけど、自分もルールの中に住んでいるのだなと実感した。

 ルールは当然になって、人を無感覚にさせる。ルールに異論を言うと、異物になる。
 
 周囲に飲み込まれていくのが怖いなと感じた。

 本音では、みんなどう思ってるのだろう?

おチビ

ごきげんよう
 
こさわ です。
 
 
 
 
1月も、もう17日。
 
速い、、、。
 
 
 
最近、
 
「時」の大切さを
 
思い知らされることが多い。
 
 
 
なのに、
 
今日、ぼーっとしていた。
 
 
 
日々、甘えているなぁと思う。
 
親、友人、上司、
 
関わる全ての人に、
 
恵まれた環境に。
 
 
 
時間は有限だとわかっているなら、
 
 
「生んでくれてありがとう」
 
「育ててくれてありがとう」
 
 
 
そう言いたいと思った。
 
 
 
けど、言えなかった。
 
本当に、言いたい事って、
 
すごく言いづらい。
 
 
 
幼いなぁと、自省してたら、
 
お父さんが、
 
足元の新聞に躓いて、
 
ドスドス音を立てて、
 
こっちに来た。
 
 
 
「死が近いな!」
 
 
 
ケラケラ笑いながら、
 
ブラックジョークは、
 
口をついて出た。
 
 
 
半年ほど前、
 
人に言われたのを思い出す。
 
 
  
「お母さんに、
 
 生んでくれてありがとう って
 
 言ってみ! 人生変わるで! 」
 
 
 
半年も時間があっても、
 
まだ、その一言が言えてない。
 
 
 
どれだけ私は、
 
「時」を無駄にしているのだろうか。
 
 
 
台所で、
 
ぼーっとそんなことを思って、
 
固まっていたら、
 
母が肩を揉んでくれた。
 
 
 
「あんた、だいぶ、きばってるからなぁ。」
 
「、、、。」
 
 
 
 
なんで、私が泣かされとるねん。
 
 
 
不甲斐ないって、こういう時に、言うんかな。