ブログ・コサワ

日常の気づきと、真面目の向こう側の笑い。

近所の道路

みなさま ごきげんよう

コサワです。

 

 水曜日、駅前の銀行に行きました。年金を払いに。

 

 久々に自転車を使いました。

 

 我が家のガレージは縦長で、2台を縦に並べて入れています。それで、私の車は、奥に置いてあるのですが、つまりは、「前の車を出して、私の車を出して、前を車をもう一度車庫に入れる」という大変な面倒くささがある訳です。

 

 そんな面倒くさいガレージの事情が後押しになり、生憎(あいにく)の雨の日に、久々の自転車に乗りました。

 

 銀行は、学習塾の近くにあります。学習塾には、中高生のころ、よく通っていました。でも、通る道は、あの頃とは、随分違います。

 

 15年前は無かった道があって、ほぼ一直線で銀行に着きます。開けたキレイな道を、ゆるゆる自転車で走りました。お金をかけて作られた、立派な道、街路樹も植えられています。

 

 走りながら、ふと横を見て、中学生のころは、向こうの住宅街の中を、毎日自転車で走っていたなぁと思いました。最短距離で、駅に繋がる、このキレイな道ができたので、以前使っていた細い道を通ることは、もう滅多にないです。

 

 今更、スマホの無い時代には、戻れないように、この道が無い生活には戻れないです。道路にしたって、何にしたって、変化すれば、新しい景色を見る一方で、もう戻れなくなって、見えなくなる景色があるものです。

 

 変わらないものは無いということが、普遍だと言わるし、それは当たっています、、、。ただ、変わったということに気付かないのは、落とし穴にはまっているような状態、、、。

 

 道ができたということは、誰かが作ったということ。立ち退いた人がいるということ。いつもキレイであるということは、誰かが掃除しているということ。緑が美しく茂っているということは、誰かが世話をしているということ。

 

 変化にも、不変にも、蔭がある。落とし穴は、誰かが掘ったから、そこにある。平らなのは、誰かが掘った穴を、違う誰かが埋めたからってこともある。


 見ようとしないと見えないものを、大切にしたいなぁと思います。


 街路樹の躑躅(つつじ)は、下から生い茂るカラスノエンドウに日照を奪われて、早くも、ところどころ枯れています。