「考える」は、粘土遊び
考える。
便利な言葉だ。
その場で、結論が出しにくい時、「考えます」と言ってその場を去る。
でも、そういって本当に考える人って、どれくらい居るんだろう?
受け流し方を考える人。
一人でうじうじ考える人。
人に相談する人。
この辺に分かれる気がする。
受け流し職人
→受け流すことしか考えてないし、言うまでもなく内容については考えてない。。。
孤独ループうさぎ
→たぶん同じ言葉がグルグルするだけで、何か良い思考の産物が得られる可能性は低い。。
丸裸戦法。他人に話まくる。
→この選択肢が、実は一番内容について、本質的に考える気がする。
(相談する相手にもよるけど、)人に相談することには、2つのメリットがあるから。
a. 誰かに話すってことで、とりあえず思ってたことを吐き出せるから、脳みその容量が空く
なんていうか、アイディアをいくつか持っていて、初めて「考える」っていう作業ができるわけやし。
しかも、集めたアイディアをそのままの姿で使うだけじゃ、新しい解は出なくて、既存のアイディアを分解して、全部混ぜて、組み立て直して、自分のアイディアを作り出す。
「考える」って、そんなことかなと思う。
で、これが私には、粘土遊びに思える。
粘土になる材料を集めて、コネてコネて、良い粘土を作って、
いじって、いじって、変形させて、
いつか、「これだ!」っていう形にたどり着く。
そういうイメージに私の頭の中ではなってる。
だから、材料集めをしない限り、「考える」っていうフェーズに至ることはできない。
けっこう、考えてるようで、何も考えてないことが、
私は多い。
孤独ループうさぎ。